「おはよう、兄サマ」
モクバは昨日の夜と同じ服のまま朝食の席についた。
徹夜明けの目元にはクマが浮かんでいたが、声はいたって元気そうだ。
「おはよう」
海馬はすでに食事を終え、身支度を整えている。
そろそろ弟が起きてくるのではないかと、出かける前に食堂に顔を出したところだった。
「寝なかったのか」
「うん」
「ひと段落ついたなら、仮眠をとれ」
「ありがと。兄サマが出かける時間だから、顔を見に来たんだ」
眠い目をこすりつつ、使用人が差し出したホットココアを手に取る。
海馬は手首に時計をはめながら、ふ、と笑った。
「どうせ社で会うだろう」
「そーだけどさ」
まだ少し、時間の余裕がある。
海馬は近くの使用人にコーヒーを持ってくるように言うと、弟の隣の席に腰掛けた。
「兄サマ、今日は登校するんだ?」
「ああ。今月はもう行く暇がないからな」
「オレも今日は行かないと」
ふぁ、とアクビをするモクバの頭に手を置く。
「少しは寝ろ。成長が止まるぞ」
「大丈夫だよ。兄サマの弟だから」
モクバはにっこりと微笑えんだ。
こうして兄弟で話す時間を持つと、あわただしい生活の中にも少しだけゆとりが持てるような気がしてくる。
海馬はコーヒーを二口ほど口にすると、席を立った。
「行ってらっしゃい」
「ああ」
「四時間目だけ出て、すぐ出社するから」
「わかった」
兄の珍しい制服姿の背中を見送ると、モクバはホットココアを飲みほした。
もう少しだけ仕事してから、昼まで仮眠をとるつもりだ。
モクバが開発中のKCの新しいセキュリティ・システムは、スケジュール上ではあと2週間後に完成する予定だったが、
モクバはどうしても9日後に間に合わせたかった。
そのために、ここ数日間は1日2、3時間しか寝ていない。
常にオーバーワークぎみの兄の逞しさを今さらながら実感しつつ、自室に戻ってPCと向かい合った。
構造はほとんど出来上がっていて、テスト中に重大な欠陥が見つからない限り、ギリギリ間に合う日数だ。
「よし、いける」
唇に残ったココアをぺろりと舐めた。
3週間ぶりの学校では、文化祭の準備が進められていた。
「おはよう、海馬君」
海馬が見下ろすと、エジプト風の衣装を着た武藤遊戯が立っていた。
その額は段ボールを塗装したらしい金のアクセサリーで飾られている。
どこかで見たような形だった。
「なんだ、その有様は」
「文化祭でボクたちのクラス、芝居をするんだ。その衣装合わせ。海馬君は当日、来る?」
「今月の登校は今日が最後だ」
「え、そうなんだ……」
遊戯は顔色を曇らせた。
「ボクたち、アイーダをやるんだよ。歌は省略だけど」
「オペラの歌を省略してどうする」
「だって、ボク歌うのやだよ」
机にジュラルミンケースを置き、中からノートパソコンを取り出す。
海馬が机で仕事を始めるのはいつものことなので、遊戯は構うことなく話し続けた。
「もともとは衣装と美術の担当だったんだ。出るつもりはなかったのになぁ…」
「ならばやめろ」
「う……だって、杏子や城之内くんが……」
海馬はモニターを見ていた目を遊戯に移した。
おどおどとした表情さえ除けば、いつか幻で見た王の姿とそっくり重なる。
「このカッコ懐かしい、って言うから」
遊戯は海馬を上目づかいに見ながら、小さく苦笑した。
海馬からの応えは求めていないらしく、時間ができたら来てね、と上演時間を告げて自分の席のほうへ戻って行った。
キーボードの上で指を走らせながら、モニターに表示された日付を見る。
武藤遊戯のもう1つの魂である名もなき王がこの世界から消滅した夏から、1年以上が経っていた。
モクバはKCに出社してすぐ、社長室のドアを叩いた。
「兄サマ、いい?」
「入れ」
海馬は丁度技術開発室から戻ったところで、作業服を着たままだった。
「セキュリティ・システムのテストに入りたいんだ」
「早いな」
片手でPCを操作しつつ、作業服のジッパーを下げる。
KCのワッペン入りの作業服は、科学実験のキツイ匂いがまとわりついていた。
「スケジュールより、8日早いぞ」
「メインサーバのシステムテストにはほとんどまる1日かかるし、明日明後日の連休を使えればいいかなって思ったんだけど」
ちらり、と海馬がモクバを見た。
「そっちの開発で、明日明後日は不都合?」
「いや、問題ない」
海馬は作業服を脱ぎ、かけてあったネイビーブルーのシャツに袖を通した。
「モクバ」
こっちにこい、と視線で促す。
「何を急いでいる?」
「うん……」
少しは仮眠をとったものの、モクバの目は赤くなったままだ。
「理由を話せ」
「………」
「トラブルか」
「ちがう」
「なら」
「ごめんなさい」
海馬が小さなため息をつくと、モクバはキッ、と伏せていた顔をあげた。
「他の社員に迷惑はかけないから、やらせて欲しいんだ」
モクバがこうして海馬に意地をはるのは珍しい。
海馬は少し思案して、緊張したおももちの弟に声をかけた。
「いいだろう。だが、睡眠はきちんと取れ。それができないのなら、お前をセキュリティの開発から外す」
「ありがとう、兄サマ!」
モクバは頬を輝かせた。
甘いと言われればそれまでだが、モクバが社や海馬に害のあることをするはずがないと確信していたので、許可することにした。
海馬が甘くなれるのはモクバに関することだけだ。
* * * *
「海馬君、来てくれたんだ」
肌を浅黒くペイントした遊戯が嬉しそうに寄ってきた。
「お前は、王の役か?」
「うん。そして主役はなんと、城之内君」
遊戯のいでたちは、記憶の中の姿とさらに近くなっていた。
「城之内だと?フン、見る気が失せたわ」
「ふふ、結構似合ってるんだよ。くじ引きで決まったんだけど」
ほら、と指し示す先に、エジプトの戦士に扮した城之内が台本を片手にブツブツと独り言を言っていた。
「犬にセリフを覚えさせるとは無謀だな」
「大丈夫だよ。いざとなったらカンペ出すから」
海馬はチラリと腕時計を見た。
今日は制服ではなく、白に青のアクセントの入ったスーツを着ていた。
「仕事中だったのかな?来てくれてありがとう」
「貴様らのごっこ遊びに興味はないが、モクバが見たいと言い出してな」
「え、モクバ君も来るの?嬉しいなぁ」
海馬が朝食の時何気なくした話に、モクバはことさら興味を持ったようだった。
どうしても一緒に見たいと言うので、本社から出向する合間に待ち合わせて見ることにした。
「ボク、海馬君のラダメスも見てみたかったな。勿論、神官長の役もピッタリだけど」
冗談ではない、と言おうとしたところに、モクバが駆け込んできた。
「兄サマ!遅れてごめん!」
「モクバ君!」
「うわぁ、遊戯?すっごい似合ってるぜぃ」
モクバは自分より少し身長が高い程度の遊戯の顔をまじまじと覗き込んだ。
「モクバ、仕事は大丈夫なのか?」
「あ、うん。最終チェックも済ませてきたよ!今夜、本社に帰ったらリポート提出する」
騒ぎに気がついたのか、城之内が声をあげた。
「おっ、そこにいるのはモクバか?」
「じょーのうち、お前、衣装負けしてるぜぃ」
「なんだとてめっ」
「はいはいストップ」
杏子がモクバと城之内の間に割って入った。
こちらは古代エチオピア風のドレスだ。
「貴様がアイーダか」
「海馬君、モクバ君、来てくれてありがと。そろそろスタンバイの時間よ」
「そっか。じゃあ、二人とも楽しんでね」
遊戯たちは慌ただしく教室を出て行った。
「ずいぶんハチャメチャなアイーダだったね」
観劇後、モクバは満足そうに海馬に微笑んだ。
「主役がセリフを忘れて適当なことを言い出したせいでな」
「ほんと、どーなるかと思っちゃった。でも楽しかったなぁ。まさかラダメスとアイーダが地下牢を破壊して脱出するとは思わなかったもん」
「悲劇どころか喜劇だな」
「だよね!もう、サイコー」
モクバは腹を抱えて笑っている。
「遊戯の顔見た?笑いだす寸前だったぜぃ」
「ああ」
「もう1人の遊戯も、きっと吹き出しそうになってただろうなぁ」
海馬は遊戯と重なるもう一人の面影を思い出した。
「ね、もう1人の遊戯が消えてから、1年すぎたね」
突然の話題に、海馬は少し驚いた。
「もうあんなふうに、懐かしめるんだね、アイツら」
ふ、と微笑みに影が差す。
「どうした」
「……ううん。なんでもない」
モクバはへへ、と鼻の下を指でこすった。
海馬がKC本社地下のメイン・サーバ室についたころ、時刻は夜の9時を回っていた。
「最終チェックの経過報告と最終リポートだよ。4回目と5回目、6回目のテストでともにノープロブレム」
モクバから受け取った電子書類をチェックする。
「よくこれだけのものを作ったな」
海馬は率直に感嘆の言葉を贈った。
弟の実力は誰よりも把握しているつもりだったが、予想以上の成果だった。
「うん。でも実は、おおよその基盤を作ったのはオレじゃないんだ」
海馬が顔をあげると、モクバはPCの1つに触れ、セキュリティのプログラミングをモニターに映し出した。
そこに1つの構造体が現れる。
電子の球体のようなそれに、海馬は見覚えがあった。
「ノア?」
「うん。これは、ノアの電子化された頭脳を保護していたセキュイティが元になってる」
カタカタとキーボードを打つと、破壊されたノアのデータの残骸と詳細が表示されていく。
「兄サマにセキュリティ・システムの開発を任されてから、KCのメイン・サーバにあるあらゆる情報を掘り返していたんだ。
そこで……見つけたのが、これ」
意味をなさない膨大な文字の羅列を見つめながら、モクバは膝の上で両手を組んだ。
「ノアの人格データは全部削除されてる。オレたち以外の人間が見ても、これが何だったかわからなかったと思うよ」
海馬はモニターに指で触れ、目を細めた。
「ノアの存在はオレたちですら感知することはできなかった。恐るべき保護システムだな」
「開発したのは剛三郎のプロジェクトチームだろうけど、完成させたのはノア自身だよ。生身の人間が処理できる情報量じゃないよ、これ」
「こうしてかすかに生き残っているということは、ノア自身の破壊プログラムをも退けたということか」
電子化された死人であるノアは、最期に自らのデータを破壊した。
「うん。多分、自分を完全に破壊できないようにしてあったんじゃないかと思う」
「剛三郎がそうしたと?」
「わからない、だけど。ノアが破壊した剛三郎のデータは完全に消えてるから」
モクバは兄の眼を見て言った。
「ねぇ、兄サマ、このシステムにノアの名前をつけたいんだ」
海馬が何かを言い出す前に、モクバは矢継ぎ早に続けた。
「……今日、は……ノアの生まれた日、なんだ」
戸惑うように視線が落ちていく。
「なぜそれを知っている?」
「壊れたプログラムを解読して組みなおしていく時に、気づいたんだ。一番最初の、根幹となる4ケタの数字」
モクバはキーボードを4回叩いた。
「1128」
打ち込まれた数字に呼応して、モニターの文字が変化する。
数千もの文字が自動的に入力され、スクロールが高速で落ちていく。
30秒ちかく入力し続けられた文字が、ふいにとまった。
「noah」
最期に打ち込まれたのはその言葉だった。
「ノアがこの世に存在した記録は削除されてて、これがノアの誕生日かなんて確かめようがないんだけど」
モクバはモニターを見つめながら、ゆっくりとまばたきした。
「どうしても、今日完成させたかったんだ、オレ」
海馬は腕を組んで弟を見下ろした。
完成を急いでいた理由がやっとわかった。
「お前の作ったシステムだ。お前の好きなようにしろ」
「ありがと、兄サマ」
うつむいた目は、少しうるんでいるように見えた。
「あいつのこと、知ってるの、オレたちだけだから」
* * * * *
アラームで目を覚ますと、モクバはPCを起動させた。
黒いモニターに白い文字が打ち込まれ、本社サーバへの接続を通知するウィンドウが現れる。
モクバは要求されたIDを打ち、PCの生体認証装置に指をかざした。
"noah"はモクバを認証した。
≪Good morning! Mokuba
Kaiba ≫
モクバは目を細めて笑った。
「おはよう、ノア」